ドゥシニキの地で
営まれてきた製紙

ポーランド各地では製紙工場が操業していますが、手漉きの製紙工房が残っているのはドゥシニキ=ズドゥルイだけです。4世紀近くにわたり、ここの運営はクレッチマー家、ヘラー家、ヴィール家に引き継がれてきました。17世紀初頭、クレッチマー家は貴族として取り立てられ、つづいて1750年にはヘラー家が王室御用達の製紙業者になりました。ドゥシニキの手漉き紙は、プラハ、ウィーン、ベルリン、ワルシャワなどの宮廷で使用されたほか、芸術家たちにも愛用されていました。かのフレデリク・ショパンも、1826年にこの地の紙で、友人たちへ書簡をしたためています。

19世紀に入り機械化が進むと、手漉きによる製紙では採算が取れなくなりました。ドゥシニキでも1905年に機械漉きへの転換が試みられたものの、状況は好転せず、1930年代に生産が打ち切られました。

20世紀初頭の製紙工房
1. 20世紀初頭の製紙工房
戦間期の製紙工房
2. 戦間期の製紙工房
戦間期の製紙工房
3. 戦間期の製紙工房

第二次世界大戦後、廃業した製紙工房は国有化され、1968年に製紙博物館へと生まれ変わりました。そして1971年には、伝統的な手漉き技法による製紙が再興され、かつての紙づくりを見学できるようになりました。

製紙工房

ドゥシニキ=ズドゥルイの紙づくりの伝統は、1562年以前にまで遡ります。製紙工房では住み込みの職人たちが、地下階で紙を漉き、屋根裏で乾燥させていました。1階は住居のほか、事務に利用されていました。17〜18世紀には製紙がもたらした莫大な利益をもとに建物の拡張や装飾が進められました。

入口として八角堂が建てられ、西の妻側には渦巻き模様の飾りが施されています。東側には、広々とした木造の乾燥室が増築されています。1802年頃には、窓の上の外壁に円形や半円形の花模様が施され、窓と窓の間には付柱が設けられました。西側には窓が7枚あるように見えますが、意外にもこのうち3枚はバランスを整えるために描かれた壁画です。

入口の八角堂
4. 入口の八角堂
製紙工房の外観
5. 製紙工房の外観
西の妻側
6. 西の妻側
装飾が施された窓
7. 装飾が施された窓

色彩豊かな装飾壁画

この製紙工房では1969年になんと、屋根裏の最下層で剥がれかけた塗装の下から装飾壁画が姿を現しました。おそらく17〜18世紀に描かれたもので、工業施設では極めて珍しくバロック様式が採用されており、当時の紙職人たちの暮らしぶりや地位の高さを伝える貴重な資料となっています。さらに2009年には、彩色された天井の上にもうひとつ天井があり、そこにも絵画が描かれていることが判明しました。

製紙工房の歩み